海外版ファミコン『Nintendo Entertainment System(NES)』は北米で1985年に販売開始されてから、2025年で発売40周年を迎えます。
そして『NES』は北米において1980年代初頭の、ゲームソフトの粗製乱造に端を発する「アタリショック」と呼ばれるゲーム業界の大不振を打ち破った金字塔的なハードウェアでもあります。
とはいえ日本におけるファミコンと、北米におけるNESは厳密に言えばハードのデザインやブランディングが異なるため「北米におけるNES」がアメリカのゲーム市場でどんな位置づけのものかイメージできない方もいるでしょう。
そこで今回は「アタリショックからNESの登場」を振り返っていきます。
【ゲーム業界の転換点】アタリショックからNESの登場

アタリショックとは1983年の「北米のゲーム市場の深刻な不況」を指す言葉。当時の北米市場で最も有名なゲーム開発企業が「アタリ社」であることに由来します。
アタリは1972年創業で、同社が躍進するきっかけとなったのがゲーム機「Atari VCS(※後にAtari 2600へと名称変更)」の発売でした。
アタリが手掛けた最も象徴的なタイトルの1つが『ブレイクアウト』。日本では「ブロック崩し」として知られるゲームです。
『ブレイクアウト』は瞬く間に世界的に広がり、日本でも流行。その『ブレイクアウト』を研究して生まれたと言われるタイトルが『スペースインベーダー』であり、『スペースインベーダー』を移植して展開したことでAtari VCS(※Atari 2600)はさらに人気が拡大していきます。

そしてアタリショックは、1970年代後半から1980年代初頭のビデオゲームブームの後に起こりました。
この時期、前述した「Atari 2600」などのゲーム機が爆発的な人気を博し、市場は急速に成長していました。
一方で市場にはアタリのハードだけではなく「Commodore 64(コモドール64)」など初期の安価な家庭用コンピュータも登場。アタリは自社に追従する他の家庭用ゲーム機だけでなく、低価格の家庭用コンピュータとの価格競争にも巻き込まれていきます。
結果として市場にはゲーム機や家庭用コンピュータがあふれかえり、なおかつ肝心のソフトウェアの品質管理が喪失し、劣悪なサードパーティ製タイトルばかりになってしまったことで余剰在庫が大量に発生。多くの企業が経営不振に陥ることとなりました。
たとえば当時、ワーナー(※当時のアタリの親会社)は「第4四半期(1982年の10月~12月)の利益は発表数字の10%~15%」と公表しています。ゲームソフトは一過性のブームに過ぎなかったのではないか、と懐疑的な見方が市場に広がり、ゲーム市場は冬の時代を迎えます。
NESの登場(1985年)

海外版ファミコン、つまりNintendo Entertainment System(NES)は1985年10月に北米で発売されました。これはアタリショックから2年後の出来事で、業界がまだ回復途上にある時期でした。
この時期に任天堂が取り組んだことは、単に新たなゲーム機を市場に投下するに留まらず「ユーザーの信頼を回復すること」でした。NESは厳格な品質管理と市場の信頼回復を通じて、業界を再び繁栄へと導いたと言えます。
ではNESが行った厳格な品質管理とは何だったのでしょうか。次の項目で詳しく見ていきましょう。
【1】厳格なライセンス制度やコピーガード

任天堂は欧米へNESを投入するにあたり、アタリショックのような事例を回避するため、NESにコピーガードを搭載。サードパーティによる粗製乱造を厳しく防ぎ、ライセンス制度を通じて品質担保を行いました。
【2】マーケティングの革新
NESは「ビデオゲーム」のイメージを一新し、「エンターテインメントシステム」とブランド化。「ビデオゲームシステム」というネーミングを避けたことも、国内におけるファミコンのイメージと異なる点です。
たとえばNESの外観はAtari VCSのようなメカニカルなデザインが特徴的。また小売店店頭ではR.O.B.(ロボット玩具)を同梱した製品も一部流通させており、小売店や消費者にクリスマス商戦などにおける魅力的なアピールを行いました。
【3】高品質なゲームの提供
任天堂は「スーパーマリオブラザーズ」に代表される人気の高いタイトルを次々リリースした一方、サードパーティ製のタイトルの粗製乱造には厳しく対処。たとえば暴力的な描写や性的描写を含むタイトルへの審査は極めて厳しく、ゲームメーカーの中にはコピープロテクトの回避をグレーな手法で目論む企業もあるほどでした。
こうした品質管理が「ゲーム業界」への信頼回復に果たした役割は非常に大きいものです。
任天堂の高品質さが「GENESIS」登場への布石になった一面も
なお当時の任天堂の一社独占に近しい開発や、サードパーティへの極めて厳しい排除的な姿勢は北米では賛否両論でした。良くも悪くもアタリショックを経て、NESが登場して以降は「新作は任天堂のゲームばかり」のような状態が一定期間あり、「Atari 2600」などに存在していた「アメリカのスタッフによる、アメリカ向けのゲーム」は急減してしまいました。アタリショックの原因は粗製乱造だとよく言われるものの、実際には「玉石混交」に近く、優れたゲームもたくさんあったのも事実なのです。
こうした点に目を付け、任天堂に対して挑戦的なマーケティングを行ったのがセガ・オブ・アメリカであり、後の「GENESIS(メガドライブ)」の登場につながります。
GENESISは北米で最も売れたゲーム機の1つでもあり、今日でもGENESISはレトロゲームの中で最も人気のハードと言っても過言ではないでしょう。NESが果たした役割は極めて大きく、その後の「セガ」「任天堂」の全面対決につながり得るものだったとも言えるかもしれませんね。
※サムネイル画像(Image:Fast and fuji / Shutterstock.com)