近年、キャッシュレス決済が急速に普及したことは言うまでもなく、経済産業省もその推進を後押ししています。スマートフォンのQRコード決済やクレジットカード、電子マネーは生活に深く浸透し、「現金を持ち歩かない」という人も増えているほどです。
一方、一部の店舗、特に個人経営の飲食店や小規模事業者を中心に、あえて「現金払い」へ回帰する、あるいは現金払いを維持する動きが見られます。たとえば筆者もよく行く個人店のラーメン店が現金のみでの食券購入制で、毎回お店に行く直前にお財布の中身を確認せざるを得ません。
これは単なる時代への逆行なのでしょうか、それともキャッシュレス決済にかかる手数料を鑑みた合理的な経営判断なのでしょうか。この記事では、店舗が戦略的に「現金回帰」を選ぶ理由を解説します。

キャッシュレス決済をやめる店舗が増加?

キャッシュレス決済を導入する店舗にとって、最も直接的な負担となるのが決済手数料です。クレジットカード決済では売上の3%~10%、QRコード決済でも1%~3%程度の手数料が発生するのが一般的です。特に、薄利多売の業種や利益率の低い小規模店舗にとって、この数パーセントの手数料は経営を大きく圧迫する要因となり得ます。
実際、経済産業省が実施した調査によると、キャッシュレス決済を導入していない事業者の理由として、「手数料が高い」は常に上位に挙げられています(経済産業省 2022年資料)。顧客利便性向上のために導入したものの、手数料負担が想定以上に重く、利益確保のためにやむなく現金払いに戻す、あるいは併用しつつも現金払いを推奨するといったケースも散見されます。価格への手数料転嫁が難しい状況では、この負担は直接的に店舗の利益を減らすことになります。
「現金払いへの回帰」のメリットとは?
キャッシュレス化が進むなかで、あえて現金払いに戻すことは「時代に逆行している」と捉えられることもあります。しかし、現金払いには依然として多くのメリットが存在します。
店舗側にとっての現金払いのメリット

店舗側から見ると、現金払いの最大のメリットは決済手数料がかからないこと。キャッシュレス決済では、売上に対して数%の手数料が発生し、特に利益率の低い小売業や飲食業では大きな負担となりますが、現金払いであれば、売上がそのまま店舗の収入となります。
また、決済方法に関するトラブル対応が少なくなったり、レジ業務も簡素化することができます。
このなかでも特に大きいのはやはり「キャッシュフロー」でしょう。
現金払いは、店舗のキャッシュフローに対して直接的かつ迅速な好影響をもたらします。現金決済の最大のメリットの一つは、売上がその場で現金として手に入ることです。これにより、日々の運転資金を即座に確保でき、資金繰りの見通しが立てやすくなります。キャッシュレス決済の場合、売上金が入金されるまでに数日から数週間かかることがあり、このタイムラグが資金繰りを圧迫する要因となることがありますが、現金払いではこの問題が解消されます。
ユーザー側にとっての現金払いのメリット

利用者側のメリットは、プライバシー面での「安心さ」。たとえば現金は匿名性が高い支払い手段であり、購入履歴が現金そのものに記録されるわけではないため、その分セキュリティリスクが軽減されます。
たとえば、災害が起こった際に電子決済システムが利用できなくなったときにも現金を持っていれば生活必需品など、最低限のものを買うことができます。
「高齢者向けサービス」としての現金の位置づけ
もっとも、一般的にデジタルネイティブと呼ばれる10代・20代の若年層は、キャッシュレス決済に対する親和性が高く、積極的に利用しています。実際、2023年のNIRA総合研究開発機構 キャッシュレス決済実態調査によると、18歳~29歳の49%がQRコードやバーコード決済を「よく利用している」とのこと。
さらに2024年のSBペイメントサービスの調査によると、20代の59.5%が店舗がキャッシュレス決済に対応していないために支払いをやめた経験があると答えています。

高齢者層は、長年慣れ親しんだ現金に対する絶対的な信頼感と安心感が根強く存在します。
先ほどご紹介した総合研究開発機構 キャッシュレス決済実態調査によると、70~79歳の年齢階層はクレジットカードこそ58%が「よく利用している」と答えているものの、QRコード・バーコード決済を「よく利用している」は17%。48%が「全く利用していない」と答えています。
一方、野村総合研究所の「知的資産創造 2022年6月号」によると、70代が「社会のデジタル化に期待しない」理由のトップは「個人情報漏洩のリスクが高くなる」ですが、他の理由として、「新しい技術や機器を使いこなせる自信がない」「デジタル化というものがよくわからない」などが挙げられます。
つまり社会のデジタル化が急速に進むなかで、「デジタルデバイド(情報格差)」の問題も顕在化しています。キャッシュレス決済は、スマートフォンやクレジットカードの所持、そしてある程度のITリテラシーを前提としており、不慣れな高齢者の方にとってはハードルが高いのです。
現金払いを維持する、あるいは選択肢として残す店舗の姿勢は、このような人々を取り残さない「優しさ」や「包摂性」の表れと捉えることができます。また、海外からの観光客のなかにも、自国で主流のキャッシュレス決済が日本では対応していなかったり、高額な海外利用手数料を避けたいといった理由から、現金を選ぶ層も少なくありません。現金は、まさにユニバーサルな支払い手段としての役割を担っていると言えます。
現金払いは「退化」ではなく「深化」した顧客サービス?
本記事では、キャッシュレス決済が主流となりつつある現代において、一部の店舗、特に飲食店や小規模事業者を中心に「現金回帰」の動きが見られる背景と、そのメリットについて考察してきました。
手数料負担の軽減といった経営合理性だけでなく、現金払いがもたらす顧客体験、さらにはキャッシュレス疲れや世代間の価値観の違いといった社会的・世代的ニーズへの対応など、その理由は多岐にわたります。

重要なのは、この「現金回帰」の動きを、単にキャッシュレス化の潮流に逆行する「退化」と捉えるのではなく、店舗が自らの経営戦略、提供価値、そして顧客との関係性を深く見つめ直した結果としての、積極的な「深化」の選択肢と理解することではないでしょうか。
全ての店舗が画一的にキャッシュレス化を目指すのではなく、それぞれの業態、規模、顧客層、そして何よりも大切にしたい価値観に基づいて、最適な支払い手段を選択する自由があって然るべきです。

たとえばキャッシュレス決済がスムーズで非接触的な取引を特徴とするのに対し、現金払いは「手渡し」という行為を伴います。この物理的なやり取りは、店員と顧客との間に短いながらも直接的なコミュニケーションを生み出す機会となります。
特に個人経営のレストランや、店主の顔が見える昔ながらの食堂、こだわりのカフェなどでは、この瞬間が重要です。「お代を頂戴いたします」「ありがとうございます」、そして顧客からの「ごちそうさま」「美味しかったです」といった言葉が自然に交わされ、お金の受け渡し以上の人間的な触れ合いと温もりが生まれることがあります。また「当店は現金のみです」という一言は、シンプルで本質的なサービスに集中するというメッセージを顧客に伝えることもあります。過剰なサービスや複雑なシステムを排し、提供する商品やサービスの質そのもので勝負するという姿勢の表明とも受け取れるでしょう。
もちろん、これはキャッシュレス決済の利便性や将来性を否定するものでは全くありません。むしろ、現金払いの持つ独自の価値を再認識し、キャッシュレス決済と現金払いのそれぞれのメリット・デメリットを客観的に理解した上で、事業者と消費者が多様な決済手段のなかから、状況に応じて最適なものを選べるバランスの取れた社会こそが望ましい姿と言えるでしょう。
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